
「解体的交感」の99年CDには「《1》でも《3》でもなく《2》であるとはどういうことか?」と題した佐々木敦さんの解説が添えられている。《3》が現れたのである。しかし「JAZZBED」には、その3か月前に録音された「交感」に刻まれた頑ななまでの解体への意思は、もはや感じられない。ということが書けるのは、今回20年ぶりに「解体的交感」を聴き返し、比較したから。購入時に聴いたきりで、その後は聴いたという記憶承認だけの「交感」体験。「JAZZBED」が発売されなければ、二度と聴き返さなかったかも知れない。
しかし聴き比べは自分が試しに実行したまでで、もちろん「JAZZBED」は独立した価値を持つ演奏の記録だ。「解体的交感」とは別種の音楽を志向していると思うし、集団/漸次投射といった言辞も却って「JAZZBED」の味わいを捉え損ねる気がする。むしろ「烈日と夕景」とでも言いたくなるような、昭和の郷愁みたいなものを個人的には覚えた。
打楽器というのは、それがテンポや拍を示していなくても、やはり時間を意識させる音の担い手なのだろうか。静止状態が続いているような高密度のノイズ運動体による「交感」から、景色が大きくうねって動き出したのは、打楽器を加えてトリオになったからなのか、それ以前に高柳・阿部に起きた変化か。
「JAZZBED」トリオの特色は、音を出す衝動の分かち合いにあると思う。そして本作はモノラル音源とのことだが、三人の演奏に奥行きが感じられる。録音テープの「よれ」なのか、モノラルなのに時々音像が左右に揺れる。1曲目の終わりのところ、まるで阿部が立ち歩きながら演奏しているようだ。1曲目の最後はブツ切れ。しかしリバーブが余韻を引く。今回の音源化作業での処理だと思うが、いい効果だ。2曲目の終わり、拍手の音からすると観客は7、8人くらいか。
tamaru