sahoux

音量

演奏者の音量の問題は、音質の問題に比べて見過ごされがちだ。明確な音量方針を持ち、的確な音量コントロールができるなら、おそらく非凡な演奏者だろう。それは自分の表現が目指すものを強固に自覚していないと出来ないことだから。

tamaru

クリスマス2017

すでにサンタクロースの正体は知っているらしく「今年は何がほしいかサンタさんに手紙書かないの?」と促しても動かず。それでも暗黙の了解というのも維持すべきと思っているようで、曖昧なまま何となく直接交渉と相成った。

tamaru

OVERHANG-PARTY

1989年の暮れに買った「ラストデイト」というCD。それから28年間、さほど熱心な阿部薫研究者でもないのに、いつの間にか自分でも驚くほど多くの阿部作品がCD入れに収まっている。購入した時の気分がさっぱり思い出せないものも多い。まるで、生きていくうちに心の底に溜まった澱のようではないか。

このところ何度目かの阿部薫再聴期を迎え、それらの音に触れるうちに、また一つ入手したくなったのが「OVERHANG-PARTY」。これは出逢ってよかった!「NORD」「JAZZ BED」といったデュオ作は、それぞれ美点はあっても、やはりソロ演奏の魅力を再認識させられるところがあったが、豊住芳三郎の優れた共演を得た本作は、それらと次元が異なる作品と言える。

阿部が自らの音楽的変化を宙に献じ、その個/孤たる美しさを豊住がいささかも損ねることなく、同化とも異なるしなやかな音像を投じて受け止めた「OVERHANG-PARTY」。録音も素晴らしい!もしかしたら阿部にとって、吹奏楽器以外は一種ガジェット扱いだったかも知れないが、それらギター、ピアノ、マリンバの演奏が心に残す光跡の清さ。狂おしい影を映すハーモニカ。そしてクラリネットとサックスの、蝋燭の火の穂のような輝き。

新しいなあ。常に新しいということ。2018年は自分も新たなイベントシリーズを始めるつもりだ。

tamaru

名前の由来

私はなぜ「tamaru」と名乗っているかというと、もちろん姓がタマルだからなのだが、1990年前後に演奏や音源の自主制作を始めた頃は、姓名を名乗っていた。ある時、カセットテープ作品のジャケットに「tamaru」という文字を強調したデザインをあしらったら、その作品を店に置いてくれた池袋西武アール・ヴィヴァンの五十嵐さんが私の活動名義だと思ったらしく、雑誌のレビュー欄に紹介してくれた時に「tamaru」というアーティストとして扱われたのだ。それで「tamaru」でいいや、となったわけ。

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一度だけ

自分の演奏は、何度も観てくれる人もいるけど、やはり一度しか観ない人の方が多いだろうから、そのことを意識して演奏する。大事にしたい意識なのに、いつのまにか忘れていて、ふと、あぁそうだったと思い出す。

11月11日の演奏は、そんな意識の中で自分の立ち方がしっかりしたのか、大きな手応えが感じられた。この晩秋の夜、スティルライフの物音による語りかけがお客さんを包み込み、大上さんのギターの鳴りから鮮烈な多幸感が拡がって、それに続く機会を得ての充実だった。

少々変わった試みもあり。会場PAを使うのは自分だけで、スティルライフは生音、大上さんもアコギのみ。それで思いつきを試させていただき、会場PAのスピーカを左右でなく、客席をはさむ形で前後に配置してみた。つまり一つはステージで演奏する自分の側、もう一つは客席の後方に。いい効果を生んだと思う。

多くの方に演奏機会をいただく。その一つひとつが有り難く、大切に演奏する。そうした中でも、やはり自分が最も「懸けている」のはソロ演奏なのだ。ここ10年ほどはそんな気持ち。

ところで、一度だけ聴いてくれるオーディエンスへの意識というのは、ライブだけでなくCD作品にも言えるのではないか。もちろん繰り返し聴かれるCDとして作る。でも一度しか聴いてくれないとしたら、何を伝えたい?そこを考える。CD作品は何度も聴いてもらえる、という思い込みを捨てる。これは今まで気がつかなかった視点だ。

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とりいそぎ

細かくお知らせする時間なくて、とりいそぎ
http://www.sahoux.net/archives/54091557.html

演奏について

演奏は生き変わること。新しく生きる、そのための演奏。
演奏は自分を知ることでもある。

自分が演っている音楽は、お客さんとの関係が一回こっきりになることが多いと思う。もちろん見守り続けてくれるお客さんもいるが、いつも新しいことを演る音楽だから、人間関係の変化を伴う。その日の演奏が立会ってくれる最後になるかも知れないという淵が常にある。だから、その一回こっきりの記憶の中に残っていく、そういう演奏であるべきだ。もう一つ思うのは、マスメディアとかに大きく扱ってもらえるような要素がない、動画配信等で伝わる部分も少ない音楽だから、演奏自体の中に全て持ち込んで進んでいくしかない、ということ。

tamaru

福島恵一さんのレビュー

当方ソロ演奏について、そして津田貴司さん松本一哉さんとのトリオ演奏について、福島恵一さんから長文のレビューをいただいた。自分の演奏について何かを書こうとすると、必ず違和感やらぎこちなさが後から感じられてきて、言語化の不得手を痛く自覚するところだが、福島さんの正確な言葉、その前提となっている正確な聴取、その結果として形象がくっきりと質量をもって浮かび上がる様、揺るがぬ外科医の手並みのよう。こちらは裸を晒し、こわごわと診断を訊く気分でもある。深みのある仕事に掬い取ってくださったことにひたすら感謝。

tamaru

震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏

フリー・インプロヴィゼーション/フィールドレコーディングのパラタクシス あるいはキスの作法 ― Les Trois Poires

DEAD PAN SMILES

大上流一さんが中野planBで長年続けてきたソロ演奏活動のうち、2004年から2013年までの記録、その一部を5枚組CDにまとめた作品。時間をかけて聴き、受け止めた。驚異的な内容である。量的な厚みとか持続に対する思いを一旦措いて、知覚のしなやかさとみなぎりを味わうよう求めてくる。

ずいぶん長い間、planBのイベントスケジュール表に毎月その名前を見ていた。彼がどういう人か知ることのないまま、私はいつも頭の中に、あのplanBの暗い空間で一人ギターを弾き、自分の音に向き合う演奏家の姿を思い描いていた。5枚組CDには演奏家が暗がりに手を伸ばし、まさぐり続けた行程がほぼ時系列に沿って収められている。しかし、まさぐるとは言っても、出音は常に冷静に見つめられ、美意識を裏切ることはなかった。

最近になり共演の機会を得て、彼の音に直かに接すると、楽器が放つ倍音のもやの上の方を聴きながら演奏していることがよくわかった。

この作品は、大上さんが未来に向けて蒔いた種子。何人かの人が行動を起こすだろう。

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Pat Martino

あれよあれよという間にいろんなことが通り過ぎていくから、何か肝心なものを失いつつあるんじゃないかと不安になるのだろうか。こういうブログにしても、何も書かない時間がびゅんびゅん過ぎ去っていく、その間に大きな出来事もあるのだけど、でも大きな出来事だから書き留めなければいけないというわけでもないだろう。ただ心の中の切実さは、噛みしめるように生きていたい。

Pat Martinoの「WE’LL BE TOGETHER AGAIN」は、デュオ名義になっていないが、全編Gil Goldsteinのエレピとの共演。ギターと鍵盤は音域が被ったりして、バランスが難しい組み合わせだと思っていたが、本作は前に出てこないエレピのコードと、太弦を鳴らす単音中心のマルティーノ節が溶け合って、不思議な影を投げかけあうような味わい。エレピでよかった。普通のピアノでは、こうはいかないと思う。しかし、こんな至福盤があるとは知らなかった。Evans & Hallの「UNDERCURRENT」など不動の評価だが、まったく異なる世界だ。この作品の本質は、ジャズを超えたところにある何かだろう。ほの暗いこの音を、長く聴き続けることになりそうだ。

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