sahoux

2023.12.19 選曲リスト

フォレストリミットでのヤス君イベント、ベースソロでの出演だけでなくDJの真似事をさせてもらいました。選曲係と言えばいいか。テーマはpost-new waveかな。新しい感覚の芽生えを捉えた感じ。しかしイーノのサードアンクルは1974年。50年前にこの曲って信じられる??

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・BANANA cell 1986
・NEW MUSIK churches 1981
・THOMAS LEER letter from america 1982
・TIGHTS china's eternal 1978
・FIVE OR SIX portrait 1982
・SALON MUSIC hunting on paris 1983
・ROBERT FRIPP & THE LEAGUE OF GENTLEMEN
 Inductive Resonance 1980
・BRIAN ENO third uncle 1974

tamaru

tacoma acoustic bass

今年2月に中古で入手したタコマのアコースティックベースのこと、まだ書いていなかった。といって今も詳しく書く時間はないのだが。音は最高。さすがにこれだけデカいと出音もデカい。いろいろ難はあって早速自分で補修したり。でも音はすごくいい。

今までの改造アコベとの比較。デカい!
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アコギとの比較。デカい!
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このサウンドホールがグッドキャラクター。
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いろいろ書きたいことあるが時間なし。

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客席

12月10日のソロコンサートを見届けてくださった客席には、90年代にCDを自主制作していた頃お世話になったディストリビューターの方がいて、00年代から付き合いを深めた知人がいて、この一年で知り合った人がいた。自己中心主義の演奏者も、誰に向けて音を出すのかということを少しは考えさせられた。
2022年の演奏は7回。少ないのだが、もっと少ないかと思っていたので意外。2021年は5回だった。2023年からは2ヵ月に一度くらいのペースで、自分が考えていることを発表というか、形にする機会を設けられたらいいなと思う。当然ソロ演奏偏重になる。

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アコースティックベースのソロ音源

こちらにご案内。
コロナ禍の影響で仕事が途切れた6月。夜明け前の時間を使って自宅録音。半月で完成。シンプルな作品ですが、生々しい音に録れており、面白いのではないかと。

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JAZZBED

jazzbed


「解体的交感」の99年CDには「《1》でも《3》でもなく《2》であるとはどういうことか?」と題した佐々木敦さんの解説が添えられている。《3》が現れたのである。しかし「JAZZBED」には、その3か月前に録音された「交感」に刻まれた頑ななまでの解体への意思は、もはや感じられない。ということが書けるのは、今回20年ぶりに「解体的交感」を聴き返し、比較したから。購入時に聴いたきりで、その後は聴いたという記憶承認だけの「交感」体験。「JAZZBED」が発売されなければ、二度と聴き返さなかったかも知れない。

しかし聴き比べは自分が試しに実行したまでで、もちろん「JAZZBED」は独立した価値を持つ演奏の記録だ。「解体的交感」とは別種の音楽を志向していると思うし、集団/漸次投射といった言辞も却って「JAZZBED」の味わいを捉え損ねる気がする。むしろ「烈日と夕景」とでも言いたくなるような、昭和の郷愁みたいなものを個人的には覚えた。

打楽器というのは、それがテンポや拍を示していなくても、やはり時間を意識させる音の担い手なのだろうか。静止状態が続いているような高密度のノイズ運動体による「交感」から、景色が大きくうねって動き出したのは、打楽器を加えてトリオになったからなのか、それ以前に高柳・阿部に起きた変化か。

「JAZZBED」トリオの特色は、音を出す衝動の分かち合いにあると思う。そして本作はモノラル音源とのことだが、三人の演奏に奥行きが感じられる。録音テープの「よれ」なのか、モノラルなのに時々音像が左右に揺れる。1曲目の終わりのところ、まるで阿部が立ち歩きながら演奏しているようだ。1曲目の最後はブツ切れ。しかしリバーブが余韻を引く。今回の音源化作業での処理だと思うが、いい効果だ。2曲目の終わり、拍手の音からすると観客は7、8人くらいか。

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アート・死・鎮魂

4年に一度の2月29日、初めて降りる京王線代田橋駅。言水ヘリオさん、福家由美子さん、加藤裕士さんによる展示「ダイアリーソング」の最終日前日。17時から展示会場でトークイベント。

いつもの悪い癖で、目の前で行われているトークと並走するように自分の思念が拡がり漂い、あまりに個人的な想いでテーマ的に重なりはあっても場として共有できるか判らず、口を開かないまま帰ってきた。「アートと死・鎮魂」について、三つの想いが浮かんだ。

一つには、遺体の怖さ、動かなくなったものへの畏怖。それを避けて鎮魂に至ることが自分にはできないということ。だから自分には表現行為における鎮魂の意識というのは、よく捉え切れないのだが、自分事として考えるならば、死を抽象化する前に怖さに向き合う、言わば「アートが要請する喪の仕事」といったものが必要なのではないか。

二つ目は、昨日観た展示内容に限らず、実は自分はしばしば展示というものを「遺作」として捉えているところがあるということ。つまり展示という行為は、作者と作品を生命的に切り離す行為であり、そこは例えば演奏行為などと大きく異なる点だと思っている。

三つ目として、やはりアートを通した死の捉えということでは、アンディ・ウォーホルのことをもう一度よく考えてみたい気になった。この件はかつて椹木野衣さんの鋭い論考などもあったし、略。

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名古屋・浜松ツアー

2月フライヤー表

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コロナウイルス忍び寄る2020年2月15日午後、増渕顕史さんと品川から新幹線に乗って名古屋へ。演奏2日間、凝縮した楽しさでした。ご来場の皆様、スキヴィアス服部さん夫妻はじめ関わってくれた全ての方々に感謝。宮原照和さん伊藤大樹さんの気高い音の清流、素晴らしかった。

思い返すと、この2日間自体は楽しかったんだけど、行く前の仕事の過密が心底キツかった。終わらない終わらない作業。睡眠不足で体力限界。本当にツアーなんて行けるのかなという重圧感。

こういうふうに2日続けて演奏する機会、自分は滅多にないことで、これは、前日の演奏を反省して手馴れてくるというより、少し遠視的な捉え方が自分の中に生まれてくる気がした。でも終わると、やはり消えてしまう。増渕さんは全ての演奏を録音し、聴き返しているそうで、スティーヴ・レイシーと同じだ。本当はそれを自分もやるべきなんだろう。ただし結構つらい作業だと思う。終わったことに向き合うつらさと、あと録音のこと考えると用意や操作も含めて、演奏の気が散るから。

だから、音に向き合うとか演奏に向き合うとか言いつつ、実は自分の中の残像だったり、さまよい揺らぐ思念を相手に、向き合っているような気分というのがある。すると充足していかない。捉えどころのなさ、そこがいい、というふうに自分は思えないし、はっきり言って演奏は生き方と切り離した方がいい。

宮原照和さんの音の見詰め方、丁寧な紡ぎ方。伊藤大樹さんの音楽への意思、太くしなやかに変幻する描線。多くの人に知ってほしいし、その機会はあると思う。それにしても伊藤大樹さん。会場に現われた彼を一目見て、私はその佇まいから来る印象に、演奏を聴く前から信用してしまった。

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インプロ

インプロビゼーションのことを「インプロ」って言う人がいるけど、あれは言わない人は言わない。まるで二種類の人間がいるみたいに、はっきりと。あれは何故だろう。実は自分も「インプロ」とは全く言わない。何故だろう。何だか略したくないものがそこにある。

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分かち難く

音色は、演奏のテンポと分かち難く結び付いている。
動きの少なさは、表現とその目的に、身体の構えというものが。

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祈ること

自分の可能性の拡がりを信じる自由はあるが、若い人たちと同じようには力を発揮できない自分がいるというのも事実だ。変化を見詰めながらやっていくことが大事になる。年寄りには祈りという仕事もある。

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